COLUMN 「辞めない人」が会社を弱くする
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― 決算書には映らない「人的資本リスク」をどう見抜くか ―
企業を分析するとき、投資家が最初に見るのは売上高や営業利益、ROE、キャッシュフローといった財務指標だろう。
近年では人的資本への関心も高まり、従業員数、離職率、平均勤続年数、女性管理職比率など、非財務情報にも目が向けられるようになった。
しかし、ここには一つの盲点がある。
「人が辞めていない会社=組織が健全な会社」とは限らない。
むしろ注意すべきなのは、会社の中核を担う社員が辞めず、黙って仕事を引き受け続けている企業かもしれない。
一見すると、その会社はうまく回っている。
売上は維持されている。
納期も守られている。
顧客から大きなクレームも出ていない。
だが、その安定が優れた業務プロセスによって生み出されているのか、それとも一部の社員の過剰な負担によって維持されているのか。
両者は、外から見れば非常によく似ている。
そして後者の場合、現在の好業績の裏側で、将来の企業価値を毀損するリスクが静かに積み上がっている可能性がある。
今回考えたいのは、「辞めない人」という存在から企業の組織力を読み解く視点である。
1|なぜ「できる人」に仕事が集中するのか
組織では、仕事が均等に配分されるとは限らない。
新しい案件が発生したとき、管理職が優先するのはしばしば「誰に任せれば最も確実に終わるか」である。
期限を守る。
判断が早い。
説明が少なくても動ける。
トラブルにも対応できる。
当然、こうした社員に仕事が集まりやすい。
短期的には合理的な判断だ。
経験の浅い社員に任せて失敗するより、実績のある社員に任せた方が確実だからである。
ところが、この判断を繰り返すと奇妙な現象が起こる。
仕事ができる人ほど仕事が増え、仕事を任せにくい人ほど仕事が減っていく。
能力を示した社員に追加負担が与えられる一方、追加された仕事に応じて既存業務が減らされないことこそが問題だと指摘されている。
さらに厄介なのが「見えない仕事」である。
後輩のフォロー、他部署との調整、トラブル対応、退職者の穴埋め、資料の修正、顧客への臨時対応。
こうした仕事は正式な担当業務として記録されないことが多い。
それでも本人の時間は確実に消費される。
こうして組織の中に、公式の組織図には存在しない「実質的なキーパーソン」が生まれていく。
2|優秀な社員は「組織の調整弁」になる
ここから問題はさらに深くなる。
急な欠勤、顧客からの追加要求、納期変更、トラブル、退職者。
企業活動には常に想定外が発生する。
本来であれば、
人員を増やす、
納期を変更する、
優先順位を変える、
業務そのものをやめる、
といった経営判断が必要になる。
しかし、もっと簡単な解決方法がある。
「あの人に頼めば何とかなる」
という方法だ。
優秀で責任感の強い社員が予定外の仕事を吸収すれば、会社は表面的には何事もなく動き続ける。
納期は守られる。顧客対応も止まらない。
トラブルも表面化しない。
この役割を組織の「調整弁」と表現している。予定外の負荷を特定社員が吸収することで、仕組みの不備が見えなくなる構造だ。
ここに経営上の大きな落とし穴がある。
優秀な社員が問題を解決すればするほど、会社は問題そのものを認識できなくなる。
人員不足でも仕事が終わる。
役割分担が曖昧でも誰かが処理する。
管理職の判断が遅くても現場が調整する。
つまり、社員の能力が高いほど、組織の弱さが数字に表れにくくなるのである。
3|これは「生産性」ではなく、リスクの集中かもしれない
投資家にとって重要なのはここからだ。
一人の社員が大量の仕事を処理していれば、企業の生産性は高く見える。
だが、それを本当に「生産性」と呼んでいいのだろうか。
特定の人しか顧客との経緯を知らない。
特定の人しかシステムを操作できない。
重要案件では必ず同じ社員が呼ばれる。
その社員が休むと意思決定が止まる。
これは効率化ではない。
人的資本における集中リスクである。
金融資産で考えれば分かりやすい。
ポートフォリオを一つの銘柄に集中させれば、その銘柄が好調な間は高いリターンが得られる。
しかし、何か起きた瞬間に損失が一気に顕在化する。
組織も同じだ。
最も忙しい人に仕事を集めることは生産性向上ではなく「一つの場所へリスクを集中しているだけ」と指摘している。病気や家庭事情、大きなトラブルが一件発生するだけで全体が崩れる可能性がある。
つまり、
「この人がいるから回る会社」は、「この人がいなくても回る会社」より必ずしも強くない。
むしろ企業価値の観点では逆である可能性がある。
4|本当に怖いのは「突然の退職」ではない
企業側は、キーパーソンが辞めたときに初めて問題を認識することが多い。
「まさか辞めるとは思わなかった」
「相談してくれればよかった」
「そこまで負担が大きいとは知らなかった」
しかし、実際にはその前から兆候が現れている。
休暇を取れない人が固定されている。
特定の社員しか知らない仕事が増えている。
忙しい社員にさらに仕事が集中している。
そして興味深いのが、
優秀な社員が改善提案をしなくなることだ。
組織悪化の兆候として、有給休暇取得の偏り、属人化、仕事集中だけでなく、「優秀な人が改善提案をしなくなる」ことまで挙げている。
これは企業分析上、非常に重要なポイントである。
人材の劣化は、退職した瞬間から始まるわけではない。
その前に、
改善しなくなる。
挑戦しなくなる。
育成しなくなる。
最低限の仕事だけを処理する。
という変化が起こり得る。
つまり、企業が失うのは「一人の社員」だけではない。
その人が将来生み出したはずの改善、イノベーション、ノウハウ、後継者育成まで失われる。
財務諸表には、この損失はほとんど現れない。
だからこそ厄介なのである。
5|評価制度が「属人化」を作っている可能性
さらに一歩踏み込むと、問題は社員個人ではなく評価制度にある。
一般的な評価制度では、
売上を上げた、
案件を成功させた、
多くの業務を処理した、
といった「見える成果」が評価されやすい。
一方で、
後輩を育てた、
手順書を作った、
問い合わせを減らした、
自分しかできなかった仕事を他人へ移した、
といった活動は評価されにくい。
しかし企業価値という視点では、後者の方が重要な場合がある。
「自分がいないと回らない人」を高く評価すれば属人化が進み、「自分がいなくても回るようにした人」を評価すれば組織能力が高まる、と整理されている。
これは非常に本質的だ。
優秀な会社とは、スーパースターを大量に抱えている会社とは限らない。
優秀な人の知識を組織へ移転できる会社である。
個人の能力を「個人の能力」のまま残すのか。
それとも、マニュアル、教育、データ、業務プロセス、システムへ転換するのか。
この違いは、長期的な企業価値に大きな差を生む。
6|「何をやるか」より「何をやめるか」
では、どうすればこの問題を解決できるのか。
ここでも重要なのは、社員に「もっと効率化しろ」と求めることではない。
なぜなら、1時間の効率化によって生まれた時間に、新しい仕事を入れてしまえば、社員の負担は永遠に減らないからだ。
必要なのは経営側が、
「何をやらないか」
を決めることである。
誰も見ていない資料、意思決定につながらない会議、二重入力などを削減対象の例として挙げ、効率化で生まれた時間を改善・育成・学習・休息のために残すことを提案している。
さらに新しい業務を追加するときには、
「これをお願いする代わりに、何をやめるか」
までセットで決める。
これは単なる働き方改革ではない。
経営資源の配分そのものだ。
人材も資本である以上、優秀な人材の時間をどこへ配分するかは、設備投資や研究開発費の配分と同じくらい重要な経営判断なのである。
7|投資家は「離職率」だけを見てはいけない
人的資本経営が重視される現在、多くの企業が離職率や従業員エンゲージメントなどを開示するようになった。
もちろん、それらは重要な情報だ。
しかし数字だけでは見えないものがある。
たとえば離職率が低くても、
特定社員への依存度が高い、
管理職がプレイヤー業務に追われている、
業務承継が進んでいない、
改善活動をする余裕がない、
のであれば、組織の持続可能性には疑問が残る。
実際、管理職自身も過剰な実務を抱え、マネジメントの時間を失うことで、結局は「説明が少なくて済む人」「信頼できる人」へ仕事を集中させる構造が生まれると指摘されている。
だから企業を見る際には、離職率だけではなく、
「この会社は誰か一人が抜けても回るのか」
という視点を持っておきたい。
有価証券報告書、統合報告書、決算説明資料、経営者インタビューなどからもヒントは拾える。
人材育成への投資は行われているか。
権限移譲は進んでいるか。
業務標準化やDXは属人化解消につながっているか。
管理職の役割は明確か。
後継者育成は進んでいるか。
人的資本への投資を「採用人数」だけで評価するのではなく、組織として知識を再生産できているかを見る必要がある。
8|強い会社とは「エースがいる会社」ではない
優秀な社員がいることは企業にとって大きな資産である。
しかし、その能力に会社全体が依存し始めれば、資産は同時にリスクへ変わる。
短期的には、エース社員へ仕事を集めた方が効率的かもしれない。
育成には時間がかかる。
仕事を分散すれば、一時的に生産性が落ちる可能性もある。
それでも長期的には、
業務を標準化する。
複数人が重要業務を担当できるようにする。
知識を共有する。
優秀な社員に余白を残す。
改善や育成を評価する。
という仕組みが必要になる。
最終的に目指しているのも、「辞めない人を増やす会社」ではなく、誰かが無理に耐えなくても仕事が回る会社である。
これは投資家にとっても重要な視点だろう。
おわりに|「好業績」の裏側を見る
企業分析では、数字が重要であることに変わりはない。
しかし、数字はあくまで結果である。
営業利益が伸びている。
一人当たり売上高が高い。
人員を増やさず成長している。
これらは通常、ポジティブに評価される。
だが、その生産性が、
仕組みから生まれているのか。
それとも、
一部の人間の過剰な努力から生まれているのか。
ここには大きな違いがある。
前者は再現可能だが、後者は再現性が低い。
前者は組織に蓄積されるが、後者は人が辞めれば失われる。
そして後者であっても、限界が来るまでは業績に異常が現れないことがある。
だからこそ投資家は、離職率の数字だけを見るのではなく、その企業が「誰かの頑張り」を「組織の能力」へ変換できているかを見る必要がある。
「この会社には優秀な人がいる」
そこで分析を終わらせてはいけない。
もう一つ問いを加える。
その人が明日いなくなっても、この会社は同じように価値を生み出せるだろうか。
この問いへの答えにこそ、決算書だけでは見えない企業の本当の強さが表れる。

